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10年の歳月がくれたもの・2

家族との再会

一夜明けて特に状況が変わらず、両親のその後の安否確認もできない中、その日の午後、原発で一度目の水素爆発が起きました。

このショッキングな映像は私の心をいっきに不安のどん底に突き落としていきました。

部屋の中でただ一人、どうしたらいいか途方に暮れているとき、職場の同期の女性が一人不安に過ごしている私のことを心配してくれたのか、自宅に泊まりに来ないか?と連絡をくれました。

一人でいるのが辛かった私にとってそのお誘いは大変ありがたく、彼女の自宅で一緒に過ごさせてもらうことにしました。

当時彼女は義理の両親と一緒に住んでいて、彼女のお姑さんがその日の夕飯にトンカツを沢山揚げてくれ、それがとても美味しかったのをよく覚えています。

家族の温もりのようなものを感じ、とても温かな気持ちになれました。

同時に、テレビに映る被災地域と今自分がいる安全な場所へのギャップを感じ、何とも言えない気持ちにもなりました。

誰かと一緒にいることで一人悶々とすることもなく過ごすことができ、精神的に少し楽になりました。

その日の夜は同期夫妻と川の字になって眠りました。

 

次の日になり、私は自宅へ戻ると、地元の友人から一通のメールが届きました。

この友人からのメールには、公衆電話からなら電話が繋がりやすいということが書かれており、早速最寄りの公衆電話へ向かい、父の携帯に電話を掛けました。

なかなか繋がりませんでしたが、友人の言葉を信じて祈るような気持ちで何度か掛けているうちに本当に電話が繋がり、やっと連絡を取ることができたのです!

父の元気そうな声を聞き、張り詰めていたものがいっきに緩んだような感じがしました。

家族皆無事で避難所へ避難していることを聞き、やっと安否が分かり安心することができた私は、近くに住んでいる親戚にお願いし、そこで家族が福島県内から避難してくるのを待たせてもらうことになりました。

しかし安心するのも束の間、原発事故の状況はどんどん悪化していき、二度目の水素爆発が起きました。

この爆発がどういう意味を持つのか詳しいことは全く分かりませんでしたが、「もう私のふるさとに戻って以前と同じような暮らしをすることはできないんじゃないのか」という、絶望的な気持ちになりました。

 

数日後、家族は無事親戚の家に到着し、私は両親と姉に会うことができました。

本当に文字通り着の身着のままという感じでした。少しやつれているようにも見えました。

震災翌日の早朝、外を走るパトカーが隣の川内村へ避難をすることを誘導していたそうで、それを聞いて両親はすぐに自家用車で避難所へ向かったそうです。

避難区域が広がるにつれ、当初避難していた川内村から小野町へ避難所を移動しなければならなかったこと、体育館の床の冷たさや、支給された温かい手作りの豚汁がとても美味しかったこと、ガソリンがなくなって給油に困っていたところ、偶然そこにいた知人の方からガソリンを分けてもらえたこと…

避難中にいろいろなことがあったようで、自分の家族の体験した話じゃないみたいな感覚でそれを聞いていました。

とりあえず家族と会えたことで私の心は一旦落ち着き、少しだけ活力が湧いてくるような感じがしました。

 

いつもの風景

震災後、一週間ほど仕事を休んでいた私は久しぶりに会社へ出社しました。

春分の日を過ぎた頃で外の空気はだいぶ春めいてきていましたが、自分の気持ちも、世の中の空気もとても明るい気分にはなれないような状況が続いていました。

久しぶりに(といってもたった一週間ほどですが)電車に乗ると、本数が減らされていて車内はすごく混みあっていました。

そのときの私には、その風景がまるで震災などなかったかのように、沢山の人がいつも通りに過ごしているように見えて、その「いつもの風景」にひどくショックを受けました。

家族に会えて安心したのも束の間、今度は故郷の町が一体これからどうなってしまうのか?家に帰れない家族はどうなってしまうのか?そんなことばかりが頭の中を占めるようになっていたのです。

「どうして私の故郷の人たちはこんなに大変なことになっているのに、ここにいる人たちはこんなに平常にしていられるんだろう?」

今思うとすごく被害妄想のような考え方だなと思いますが、当時はどうしてもそのような思考を止めることが出来ませんでした。

首都圏でも震災の影響は大きく、原発事故によって電力が逼迫したために計画停電というものが行われており、私の住んでいた地域でも何度か停電することがありました。

それは私の故郷で作られた電力が、首都圏の人々の生活をこれまでずっと支えてきたことを証明していることでもありました。

華やかな都会の生活がこのような構造で成り立っていたことに、こんな大惨事が起きてからやっと気が付くだなんてなんて皮肉なことだろう。自分はなんて浅はかだったのだろう。

都会に憧れて田舎から上京してきた私にとって、この事実は、自分がこれまで信じてきたことが全く意味のない虚しいものであったと思わせるものでした。

 

原発の状況は綱渡りのようなギリギリの状況が続いていて、ただこれ以上酷くならないようにと願うことしか出来ませんでした。

 

***3へつづく***