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10年の歳月がくれたもの・5

はじめての一時帰宅
震災から一年が経ち、2012年になりました。
両親は新しい場所での暮らしにもだいぶ慣れてきて、穏やかな日常を少しずつ取り戻してきていました。

しかし、実家は変わらず警戒区域になったまま、立ち入りが禁止されていました。

これまでの間、何度か警戒区域内の自宅へ一時立ち入りすることが許可されることがあり、両親は他の避難者の方々と一緒に指定された場所からバスに乗って自宅へ足を運んでいました。

そしてこの年の春、日中のみ行政に申請をすれば、自家用車で警戒区域内に立ち入ることができる「一時帰宅」が許可されることになりました。

震災から約一年後、私も両親に同行する形で、久しぶりに実家へ行くことができるようになったのです。

それまで警戒区域内の様子はテレビの報道くらいでしか目にすることは出来なかったので、一体どんな風になっているのか少し不安に思う気持ちと、故郷に帰れるという嬉しい気持ちを持ちながら、一時帰宅の日を迎えました。

 

4月初旬。夜ノ森の桜が咲く時期にはまだ少し早い春の日に、私は父の運転する車で富岡町へ向かいました。

常磐道を降り国道六号線を北上すると、車窓から太平洋が見えました。

この海が、あの日私の故郷をいっきに変えてしまったのだと思うと、何とも複雑な気分になりました。

広野町の火力発電所の煙突が見え、懐かしい気持ちになり、楢葉町のコミュニティセンターの近くに建っていた民家の屋根が激しく崩れていて、少し胸がざわざわしました。

そしていよいよ富岡町へ入り、一時帰宅の受付の為、福島第二原発の指定場所へ向かいました。

第二原発へ行くのは中学生のとき以来でしょうか。敷地内はとても綺麗に整備されていました。

受付に常駐している職員の方々から、立ち入りに必要な防護服やマスク、立ち入りの間の積算放射線量を計測するための線量計を渡されました。

渡された見慣れない物資を見ながら、自分の故郷が本当に立ち入り禁止区域になってしまった現実を実感しました。

車内から窓の外を見ると、道の脇には春の草花が咲いていて、懐かしい故郷ののんびりした風景が広がっていました。

実家に到着し、社内で先ほど渡された防護服に着替え、首から線量計を下げて車の外に出ました。

その瞬間、ああ、家に帰ってきたな~というとってもあたたかい気持ちに包まれたことに、自分でも少し驚きました。

これまでテレビでとても悲しい風景として紹介される警戒区域内の映像を見ていた私にとって、実際にそこに行って感じたことは真逆のものだったからです。

植物達は人間がいないことに歓喜しているかのように自由に茂っていて、私の背丈を優に超える大きさに成長しているものもあり、今まで自分が知っていた庭の植物は人間に管理されていた姿で、本当の姿はこれだったんだ!という新鮮な驚きを感じていました。

人間社会で起きている悲劇なんて全く関係ないように、生き生きとしている植物のそのエネルギーの強さに、私はただ感動していました。

庭のすみには毎年同じところにフキノトウが生えるのですが、今年も変わらずにその可愛い姿を現していましたし、父の畑には水仙や梅の花が沢山咲いていました。

この一年、主のいない庭の小さな草花たちが、変わらずにその命のサイクルを循環させて生きている姿に、「大丈夫だよ」と心が励まされるような感じがしました。

 

そうして自宅への一時帰宅を終え、震災後個人的にずっと気になっていたことがあった私は、父に頼んで実家の近くにある富岡町の図書館「学びの森」へ立ち寄ってもらいました。

私が大学4年生の頃、卒業制作として描いた大きな油彩作品が、この施設に展示されていたのです。

この絵は自分の心の中の富岡町のことを描いた作品で、卒業後縁あってこちらに飾られていました。

震災後家族の状況が落ち着きを見せた頃、「そういえば、あの絵はどうなっているのだろう?」と、密かに気になっていたのでした。

学びの森のエントランスの外から中を覗くと、壁や天井が崩れているのが見え、震災の影響が大きかったことが窺えました。

視点を変えて私の絵が飾られていた場所に目をやると、当時のまま壁面にあるのが少しだけ見えました。

とりあえず壁から落ちて壊れたりすることなく、そこにある様子に私は安堵して、学びの森を後にしました。

 

その後、車窓から富岡町内を少し見せてもらいました。

津波の被害の残る沿岸部の状況はやはり酷いもので、学生時代自分が毎日利用していた富岡駅が駅舎ごとすっかり流され、改札の手すりだけが残っていたことに、やはり富岡にも他の東北の沿岸部と同じように大きな津波が起きていたことを感じ、言葉にできない想いが湧きました。

最後にまた第二原発の敷地内で受付をしてもらい、さっきまで身に着けていた防護服やマスク、線量計を返却し、自宅から持ち出した荷物や、自分の履いている靴の裏側に放射性物質がついていないかチェックをしてもらい、その日受けた積算放射線量が書かれた紙を渡されました。

こうしてはじめての一時帰宅は無事終了しました。 

数時間の短い滞在時間でしたが、実際に富岡町に足を運び、自分の目でその風景を見て感じたこの一時帰宅の経験は、心の中に何か大事な感覚を与えてくれたように感じました。

Inner blossom
この年の夏、また個展をさせていただけることになりました。
この頃私はこの一年を通して震災について感じたことや、春に富岡町へ一時帰宅して感じたことを何か作品に残しておきたいと思っていました。

それまで私の作品制作は自分の身近な関心ごとをテーマにしていて、ごく個人的なことを描いていましたので、この試みはいつもと違った大きな社会的なテーマを扱う挑戦でもありました。

個人的なことを描くことは自分自身とてもしっくりきていましたし、自分が世の中で起きている社会問題などをテーマにして絵を描くことは、とても薄っぺらく、表面的になってしまう気がしてそうすることを避けていました。

しかし、今は自分の個人的な関心事が社会的な問題と交差しているので、今なら自分自身責任を持ってそのテーマに向き合えるような気がしていたのです。

 

そんな想いで完成した作品が「Inner blossom1」「Inner blossom2」という2枚の絵です。

この作品は同じ富岡町出身の友人二人をモデルにしています。

一人の友人は震災当時富岡町にいて、避難しなければならなくなり、その後避難先で結婚・出産を経験することになりました。

もう一人の友人は震災当時は都内にいて、私と同じように遠く離れた場所から故郷のことを想っていました。

この一年、原発事故という今まで経験したことのない出来事に、不安や悲しみ、怒りや虚しさ…

他の人にはなかなか話すことがためらわれるようなそんな想いを沢山感じてきました。

そんなとき、このような話を共有出来るのは、同じ故郷を持つ友人達でした。

そんな同じ故郷=同じ風景を心の中に持っている二人の姿を描いてみたいと思ったのです。

描いている桜の花とツツジの花は、富岡町を象徴する二つの花です。そこに震災当時の二人の友人の状況を重ね合わせました。

 

この作品を描くことで、世の中の報道などで言われているような視点で原発事故のことを捉えるのではなく、自分なりの視点でこの出来事と向き合っていけるような感じがしていました。 

それは、一度引き抜かれた植物の根を丁寧に植えなおして、もう一度ゆっくり育て直していくような、そんな行為であったと思います。

 

***6へつづく***